けったいな代物

雑文を公開してみる、のが趣旨です。勉強したことのアウトプットができたらいいけど多分駄文だらけになるでしょう。

上京物語は神話であるか

何か新しいことを思いついて入るのだけど、翌朝になるとそれは霧の中に消えていってしまう。何かがあったという痕跡すら残さない。完全犯罪だ、誰もこの謎をとくことはできない。何よりこれは僕個人の問題である。ふらりと現れた名探偵がハンカチで手を拭くようにすべての謎を解き明かしてしまう、そんな可能性などはじめからないのだ。

 というわけで、この問題の安直な解決策として、とにかく僕はそういった思いつきを文章の形に落とし込んでいくことにした。一つ一つ丁寧に、魚の骨をひとつひとつ取り除いていくようにして自分の中に生まれた何か──良い未来への萌芽かもしれないし、品種改良で生殖機能を失った種子かもしれないが──をほぐして文章の形にしていく。もしかしたら僕は文章を書くという作業を通してしかものを考えられない人間であるかもしれない。それはともかく、このままだと自分にとって何か大きな損失になるかもしれないという予感がある。だからそう、本当に忙しかったり文章を書く気分でないときは、無理やり料理(あくまで文章を書くということの比喩として使っているのを了解してもらいたい。しかし隠喩のあとにその説明をするなんて筆者の力量も知れたものだな、と考えながらこの括弧内は書かれている)しなくても、買ってきた食材の下ごしらえをするだけでもぜんぜん違うはずだ、だから簡易的なメモを取るだけでも結果は大きく異なってくることだろう。とにかく重要なことは、散歩したり、コーヒーを淹れたりしているときにはっと頭のなかに降りてくる考え、思考のきっかけ、謎の破片を丹念に記録していくことだ。そしてもし気が向いたら、その考えを文章に落とし込んでいく。謎をぐつぐつ煮詰めながら考えることだ。

 と、まあいつも通りの前口上を述べたところで(多くの場合、この時点で僕は満足してしまって、本論は取ってつけたようなものになってしまう)何か始まったわけでもない。というよりも、僕は何かにひらめいてこの文章を書き始めたはずなのに、その何かをすでに忘れてしまっている。なかなかに足の早い思いつきだ。と、いうわけでこの文章から少し離脱する。三十分後くらいには戻ってきたいものだ。

 読みかけの小説を読み切って、シャワーを浴びていたら新しい着想を得た。はじめに書こうと思っていたことは未だ行方不明だ。

 九州の田舎から大学進学を期に上京、孤独感と将来への不安から悶々としながらも怠惰な生活を送り、叶わぬ恋、叶ってしまった恋を経験し、一皮むけたかつての情けない青年が貧乏に喘ぎながらも最終的に夢をつかむ。高校生を過ぎてしまった人たちに捧げるありきたりの青春物語である。ストーリーとしては使い古されてしまった感が否めないが、そこはかとない寂寥感を感じる良作は多い。自分と重ねる人も多いだろうし、自分をその物語に近づけていこうと不毛な努力をする人もある(僕はお察しの通り後者である。下手くそな真面目野郎のくせに煙草を吸ってみたり、徹夜でゴダールを見て翌日の講義をすべて欠席、アルバイトに行くだけで一日を終えてしまったりと、無益な怠惰を演じている。自分が大きくなったときのために打つ布石である)。ところでこうした物語、東京に生まれ育った人間には理解しにくい。上京、その孤独感だとか将来への期待不安を身体感覚で理解できない。だからたとえばくるりの「東京」の歌詞がうまく身体に入ってこない。もちろん名曲である。陳腐な表現だけれど青春の音がする。ただ、多分上京を経験した人にしかわからない部分があるだろう、それが僕としてはなんともむずかゆい。


くるり - 東京 (Quruli - Tokyo) 百鬼夜行ver

 とはいえ東京が近くなったのも現実である。あらゆる人が言っているとおり、技術の進歩は最新の情報をすぐさま全国に広げてしまう。そこにスピードの差はそれほどない。また、どんな僻地であっても一日あれば東京に着いてしまうし、欲しいものがあったらわざわざ流行のど真ん中に行って買い求めずともネットで注文してしまえばそれで終わりだ。しかしまあ、こんなことはみんなが言っていることだ。みんなそんなことは知っている、だからこんなことを書くのは安易な気がして若干恥ずかしいし、文字数稼ぎの側面もある(まあこんな言い訳が一番の文字数稼ぎなのだが。そもそもこれはブログ、文字数稼ぎなんてする必要もないのに、とこんなことを書くのがさらに文字数稼ぎであって、とすればこれは無限ループして文字数が稼げそうだ、今度困ったときにぜひやってみよう)。

 とにかくそういった古典的上京物語はどうもそろそろお役御免なのであるまいか、ということである。僕のような昭和に憧れる変態はさておき、上京に昔ほどの隔絶感、その生き生きとした孤独は失われてしまったのではあるまいか。しかし、かつて上京することが持っていた神話的イメージが失われることはない。東京はそうしたイメージを詰め込んだ一つの入れ物であるに過ぎない。イメージは時代とともにその外郭をとっかえひっかえしながら生きている。いや、そのイメージは個々人によって異なる、といったほうが正確だろう。もとより東京に住んでいた人たちは上京を入れ物にしていたはずもない。僕のように何か大きな勘違いをしている人だけが、東京の神話性を強調しすぎただけだ。その意味で僕は東京原理主義者とも言えるかもしれない。東京がそのイメージを代表として背負っていたに過ぎない。 安易な結論ではあるけれど、これは幾つかの条件が重なり合った結果である。これは前述の論の焼き直しであるが、海外への距離は確実に縮まっている。それは主に物理的な面においてだ。海外の情報を、私たちは得ようとすればすぐに得ることができる。ここで重要になってくるのは、「得ようとすれば」というポイントである。ぼうっとスマホの画面を眺めていても、現れてくるのは日本国内の情報だけである。海外からの情報は、誰かが取捨選択したものであるに過ぎない。私たちは自発的に海外の情報を得ることができないのだ。棚の上に無数の情報が転がっているが、そこに手を伸ばすには重たいはしごを持ち上げなければならない。そのために私たちはトレーニングをする必要がある。ただ、ここでのトレーニングは語学学習、というより英語学習である、と安易に決めつけるのは避けたい。しかしこのことについては多くの指揮者がすでに論じているところで、別に無力なパンクロッカーに憧れた少年が今更論じるテーマではないだろう。しかし、その情報が家の外にあって、それを探しに足を動かさないといけなかった時代とは大きく異なっている。

 とにもかくにも、私たちと海の向こうとの距離は技術的に縮まっているのだ。つまり、上京物語が神話であった時代の九州と東京の距離と、現在において日本と海外(ここではあえて国を限定しない)との距離が同じであると仮定しても問題はあるまい。ただし、もし距離の面でその類似関係が見られるにしても、その内部にある関係性──ここでは上下関係と呼ぶ──の面を考えずにこの論を唱えるのは荒唐無稽ではないか。

 ここからは(正直に言えばこれまでも)僕の憶測になるし、確かなデータの裏付けを取ったわけでもない話にはなるが、世界における日本の立ち位置というのは着実に低下しているはずだ。この点は僕には難しすぎるし、多様な意見があるのを知っている。ただ、僕個人の、いち大学生の感覚として、これからの将来、誰もが明るい未来を抱けるわけではないであろうと感じてしまうのも事実である。怠惰な人間がもはや生きられない時代に僕たち生きているのだなと感じる瞬間が多々あるのだ。しかしそんな悲壮感を真面目なトーンでう訴えかけるのも違うだろう。僕はあくまでなあなあとだらしなく、すべてを茶化しながらのらりくらりと生きていきたいと思っている。話が脇道に逸れてしまったようだ。とにかく、現代の日本は、かつての東京たり得ないのではないか。田舎の坊主頭の高校生がとんねるずを見て憧れた東京にはなりえないのではないか。もはや私たちは世界の中で、郊外に住んでいるのではないか。憧れの視線を向けられる側ではないのではないか。

 もはや上下関係においても、日本は世界に対して田舎であるのではないか。もしそうだとすれば、新しい神話は、国外に向ける他ない。僕達の努力×成功物語の舞台は、この小さな島国に収まりきらないものになってしまったのだ。