けったいな代物

雑文を公開してみる、のが趣旨です。勉強したことのアウトプットができたらいいけど多分駄文だらけになるでしょう。

穂村弘 現実入門

 穂村弘さんの現実入門を読んだ。とても「気持ちが良い」時間だった。この言葉がこの本を一番うまく表現できる気がする。「面白い」のはもちろんだけれど、それだけでは伝えられない魅力がこの本には間違いなく存在する。

 

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

 


 気持ちが良いとはどんな感覚だろうか。湯船に浸かった時、性欲を発散した時、忘れていた何かを再発見した時。「面白い」でも「楽しい」でも「スリリング」でもない感覚。端的に言うのは難しい。感覚的、肉体的で、言語化困難な感覚。しかしそんなことを言っていたのではこの文章を書いている意味などないだろう。読書している最中、確かに僕は「気持ちよかった」のだ。


 本を読むという行為は、気持ちいいという感覚とかけ離れている気がする。僕はその違和感から、何故この本が僕を気持ちよくさせたのか、その理由を知るきっかけを得ようと試みた。おそらく気持ちいいという感覚は、刹那的な快楽、短時間に強い快楽を感じたときに人間が言語化する感覚である。例を上げた感覚もその例にもれない。湯船に使っている時間は、個人差こそあるものの一般的に10分から20分ほどであるし、性欲を発散させる時、つまりセックスやマスターベーションの快楽はそう長く続かない。忘れていたことを思い出した時の快感など一瞬で何処かへ消えていってしまう。しかしその反面、読書とは長期的な快楽であり、もしかしたら苦痛に転じることもあるかもしれない。だから読書は財産だといろいろな人が言うのかもしれない。しかし「読む」という行為の能動性は読者に要求する部分も大きい。安易に快楽は得られないはずだ。


 現実入門は、基本的にエッセイである。著者の穂村さんは歌人であり、現実に対して恐れを抱いている。例えば、初めての相撲観戦、初めてのマス席で、穂村さんは係の人に渡す「心づけ」を渡すのにドキドキしてしまう。渡すタイミングを図ってずっと手に握りしめていると、心づけはぐちゃぐちゃになってしまう。一般的にはどうするのか、何も知らないけれど恥はかきたくない。また、初めてのモデルルーム見学。その日は雨で、水たまりに足を突っ込んでしまった穂村さんは、その足のままモデルルームに入っていいのか悩み、不安になる。


 そういった日常=現実。そのなかでできるだけ判断を保留しておきたいという思い。日常に埋没してしまうエピソードを丹念に掘り返し、きれいに洗って丁寧に料理してくれる。こだわりの蒸し野菜みたいな。店オリジナルのソース(筆者独自の視点)をつけていただく。一日を振り返っても、決して思い返すことのない瞬間。しかしそういった些細な瞬間にも、自分という人間は葛藤しながら判断しているのだということに気付かされる。発見の快楽。僕は忘れていた小さな現実を思い出し、気持ちよくなったのかもしれない。


 平易な言葉を滑らかな音調に乗せて語る。小さな声で、自分のリズムで文章を口ずさみたくなる。センスが良いといったらそれまでなのだけれど。文章だけでなく、紙面のことまで考えて書かれた文章。文章を味わう、紙面全体を味わう感じ。意図的な改行、段落構成、…の使い方。絵画的な文章とでもいうのだろうか。パラパラ漫画みたいに文章を全く読まず、眺めるだけでその魅力がわかる感じ。だからこの作品は、読む前に眺めるだけで楽しい。その瞬間的な快楽を、僕は気持ちいいと感じたのだろうか。


 作品の魅力など、語り尽くせるはずもない。もしかしたら、語ることなど不可能であるかもしれない。だから読んでもらう他ない、手にとって。