けったいな代物

雑文を公開してみる、のが趣旨です。勉強したことのアウトプットができたらいいけど多分駄文だらけになるでしょう。

800字のコラム

 800字のコラムを、1万円で売れる人間になろう。実家に帰るバスの中で、唐突に思った。僕の思いつきは大概なんの脈絡もないものだから、なぜそのタイミングでそんなことが思いついたのか、自分でも分からない。座り疲れたのか、それとも休憩のサービスエリアで買った緑茶コーラのせいか。僕は軽率に目標を立ててしまう人間だ。そして深く考えることなく決心してしまう人間だ。ちなみにこの決心には2種類ある。1つはすぐに忘れてしまう決心。三日ともたない坊主。自分に期待しすぎる。だから継続する根気も体力もないのに、無茶な目標を立てて一日に予定が消化しきれずに嫌気がさして終わり。最近は特にひどい。大学に入って何かに熱中することも無く漫然と過ごしている中で、その「何か」を探しているのかもしれない。だから何度も決心を繰り返し、挫折を繰り返すのだ、といつも通り体のいい言い訳を考える。で、もう1つ。唐突に決心したことが、いつの間にか自分の心臓の中にずんと鎮座してしまう場合。人生の目標にしてしまう。1、2年は、その事だけを考えていれば安心できる、みたいな。手持ち無沙汰な時間を何に使うべきなのか、その指針を与えてくれるもの。で、その決心は具体的。その点短期目標っぽいな。そんな目標を、僕は唐突に思いつく。ビックバンみたいに。僕が二浪してまで京都に住もうと決心したのも同じ。部活後に、風呂に入るのが面倒くさくて、スマホいじりながら脱衣所で寝そべっている時、ふと「京大に行こう」と思った。で、その決意が腹の中でだんだん膨らんでいって、もう誰にも取り出せないようになってしまった。だから多分受かるまでこの挑戦は続いていたと思う。危ねえまじで受かってよかった。合格する秘訣は回数をこなすことです。受験の回数を。

  

さて今回の決意はどっちだろうか?とりあえず誰か1万円で買ってくれ。そしたら覚悟もできるし美味い酒も飲める。と、貧乏人が物乞い。

向井秀徳に憧れてしまって

真っ当に生きてきたつもりだが、何処かで大きく人生の歯車が狂ってしまったらしい。と言うことを大学生活半ば、いわば大学生としての円熟期、夢と希望に溢れた大学二回生である俺が言うのは非難轟々、ヤフコメは荒れに荒れるに違いない。しかしそれは外見にすぎない。外野は好き勝手に僕のことを批評する、はっ、やってられないぜ。俺だって辛いんだぜ、と被害妄想、そして自己陶酔。確かに俺はまだ若いし、無限の可能性が開けている。OK、それは認めよう。しかしだ、こんな俺だって毎日不安で夜も眠れないんだ。可能性が開かれているってのは、まだ進むべき道が決まっていないってことさ、おれは暗い森の中を手探りで進んでるってわけだ。と、まあいつもどうりの独り言、ヤフコメに俺の名前が乗るなんぞ夢物語に過ぎない。せいぜいN国でも見て色々学ぶんだな。お前はただの無名で無能な二十二歳、名無しのまま老いぼれてく夢見がちな一日本男児に過ぎないんだぜ、と自己批判、若干強く殴りすぎて今俺はキーボードの前でしくしくと泣いている。六畳一間でナンバーガールを聞きながら泣いている。

 

ところで俺の人生は一体どこで狂っちまったんだ。と後ろを振り返るとびっくり仰天、人生の過程で仕掛けられた少しばかりの地雷を、俺はまるで狙ったかのように踏み歩いて来たらしい。もぐらたたきの要領で、地雷があるとわかったらすぐに飛びつく阿呆、それでいて毎度重症には至らないのが憎らしい。ただコケてばっかりだ。主人公になんてなれやしない。

 

だからどうも私小説は書けない。中の下の人間の葛藤なんぞ誰が読むのか、やるからには下の下に。太宰治に、中島らもに、町田康に。いや、彼らはモテそうだな。根本的に違う、むしろ憧憬の対象だった。

 

とまあいつもの通り長くなってしまった前置き。前置きだけ書いてりゃ楽なんだ。脳みそを空っぽにして響きだけで書いていけるからな。

 

ところで、向井秀徳というおっさんがいる。先日46歳の誕生日を迎えた。ナンバーガールZAZEN BOYSのフロントマンとして絶賛活動中だ。ナンバーガールの復活は記憶に新しい。

 


Number Girl - 透明少女 (Live from RSR FES 1999)


Zazen Boys - Asobi 7.19 2018

 

まあこのおっさんのかっこよさは動画を見てもらえばわかる。わからなくてもしょうがないとは思うが。

 


向井秀徳による YUI「CHE.R.RY」のカバー

 

適当な動画を探していたら小一時間経ってしまった。そして酒が飲みたくなった。飲む。乾杯。

 


Number Girl - ZEGEN VS UNDERCOVER (Live from FUJI ROCK FESTIVAL 2001)

 

YouTubeのコメ欄を見てもらえばわかるだろうが、向井秀徳のファンは熱狂的である。彼の一挙手一投足を大声で笑い、愛している。例えば向井秀徳がインスタントラーメンを作る動画。

 


向井秀徳 インスタントラーメンを語る

 

これのどこが面白いのかと聞かれても困る。事実俺はこの動画を友人に紹介して首をひねられ若干引かれたことがある。しかし俺ら、向井秀徳を愛してやまない者達にとって、この動画はどんな動画よりも笑えるのだ。俺達にとって、向井秀徳松本人志よりも、有田哲平よりも優れたコメディアンですらある。

 

とまあ、向井秀徳に対する思いは書ききれないし、正直ギターを弾かない俺にはわからない魅力もたくさんあるだろう。そうした熱情を書き連ねるのは他のブログにでも委ねよう。ところで俺達向井チルドレン(俺は向井秀徳の影響で眼鏡をかけるようになった。楕円形の金縁のやつ。それ以来俺は自分のことを向井チルドレンと呼んでいる。あ、一人だから向井チャイルドか。いやそれは弱そうだ、却下)は、というか俺は、自然な流れで向井秀徳みたいになりたいと思うようになった。彼の人間性に少しでも近づけるようになりたいと願った。ロックバンドをやることはないだろうが、俺は向井秀徳のように自信満々で、心地よくも高圧的な人間になりたいと思った。

 

となると、やはり形から入るのが筋、というより形から入るのが楽だ。というわけで俺は向井秀徳の愛するものを愛さねばならんだろうと思うようになった。そして彼の行動を真似しようと思うようになった。

 

つまり酒である。煙草である。それでもやっぱり蘇る性的衝動である。

 


ZAZEN BOYS - 自問自答 @ TOUR MATSURI SESSION

 

俺はステージ上で酒を飲みながら、煙草を吸いながらパフォーマンスをするのだ。ロックンロールじゃねえか。しかし俺は楽器が弾けないし歌も下手くそだ。だから、彼のエッセンスを俺は輸入するんだ。

 

黒ラベルを飲みながら授業を受け、灰皿片手にプレゼンテーションをする。向井秀徳は仕事の最中に酒を飲み、煙草を吸った。俺は大学生だ。勉強が仕事だ。だから酒を飲みながら勉強する。

 

 ん?これは格好がよろしいのか?

 

俺はいいちこソーダ割りを片手にロシア・フォルマリズムについての発表をする。質問の時間はアンコールの時間だ。アンコールを受けた俺は缶ビール片手に大学院生、教授の質問に答えていく。そして最後には乾杯、ロックスターよろしく壇上を去る。

 

 ん?

 

困った。ただの迷惑な男に成り下がってしまうのである。そして、ナンバーガールを毎日聞くのだから毎日酒を飲むようになる。この嫌煙時代に喫煙者になってしまう。

 

向井秀徳向井秀徳たらしめているものは何だったのか?俺は大きな思い違いをしていたのかもしれない。憧れの人間の真似しやすいところを真似していったら、俗物になってしまった感がある。ロック界の奇才に、酒を飲んだらなれるわけもないだろうが。よく考えたら大多数のおっさんは酒が好きじゃねえか。普通のおっさんになっちまっただけじゃねえか。あ、ちょっとビールがなくなったのでコンビニで買ってきます。

 

 ん?

 

しかしまあ、酒はうまいしそれでいいか。向井秀徳も酒が好きなのは間違いないのだし。とりあえず乾杯しよう。冷えているうちにビールを飲もう。そしてキンミヤ焼酎でチューハイを作ろう。浜風でもつまみながら。

 

 

 

 

 

 

 

 



 

上京物語は神話であるか

何か新しいことを思いついて入るのだけど、翌朝になるとそれは霧の中に消えていってしまう。何かがあったという痕跡すら残さない。完全犯罪だ、誰もこの謎をとくことはできない。何よりこれは僕個人の問題である。ふらりと現れた名探偵がハンカチで手を拭くようにすべての謎を解き明かしてしまう、そんな可能性などはじめからないのだ。

 というわけで、この問題の安直な解決策として、とにかく僕はそういった思いつきを文章の形に落とし込んでいくことにした。一つ一つ丁寧に、魚の骨をひとつひとつ取り除いていくようにして自分の中に生まれた何か──良い未来への萌芽かもしれないし、品種改良で生殖機能を失った種子かもしれないが──をほぐして文章の形にしていく。もしかしたら僕は文章を書くという作業を通してしかものを考えられない人間であるかもしれない。それはともかく、このままだと自分にとって何か大きな損失になるかもしれないという予感がある。だからそう、本当に忙しかったり文章を書く気分でないときは、無理やり料理(あくまで文章を書くということの比喩として使っているのを了解してもらいたい。しかし隠喩のあとにその説明をするなんて筆者の力量も知れたものだな、と考えながらこの括弧内は書かれている)しなくても、買ってきた食材の下ごしらえをするだけでもぜんぜん違うはずだ、だから簡易的なメモを取るだけでも結果は大きく異なってくることだろう。とにかく重要なことは、散歩したり、コーヒーを淹れたりしているときにはっと頭のなかに降りてくる考え、思考のきっかけ、謎の破片を丹念に記録していくことだ。そしてもし気が向いたら、その考えを文章に落とし込んでいく。謎をぐつぐつ煮詰めながら考えることだ。

 と、まあいつも通りの前口上を述べたところで(多くの場合、この時点で僕は満足してしまって、本論は取ってつけたようなものになってしまう)何か始まったわけでもない。というよりも、僕は何かにひらめいてこの文章を書き始めたはずなのに、その何かをすでに忘れてしまっている。なかなかに足の早い思いつきだ。と、いうわけでこの文章から少し離脱する。三十分後くらいには戻ってきたいものだ。

 読みかけの小説を読み切って、シャワーを浴びていたら新しい着想を得た。はじめに書こうと思っていたことは未だ行方不明だ。

 九州の田舎から大学進学を期に上京、孤独感と将来への不安から悶々としながらも怠惰な生活を送り、叶わぬ恋、叶ってしまった恋を経験し、一皮むけたかつての情けない青年が貧乏に喘ぎながらも最終的に夢をつかむ。高校生を過ぎてしまった人たちに捧げるありきたりの青春物語である。ストーリーとしては使い古されてしまった感が否めないが、そこはかとない寂寥感を感じる良作は多い。自分と重ねる人も多いだろうし、自分をその物語に近づけていこうと不毛な努力をする人もある(僕はお察しの通り後者である。下手くそな真面目野郎のくせに煙草を吸ってみたり、徹夜でゴダールを見て翌日の講義をすべて欠席、アルバイトに行くだけで一日を終えてしまったりと、無益な怠惰を演じている。自分が大きくなったときのために打つ布石である)。ところでこうした物語、東京に生まれ育った人間には理解しにくい。上京、その孤独感だとか将来への期待不安を身体感覚で理解できない。だからたとえばくるりの「東京」の歌詞がうまく身体に入ってこない。もちろん名曲である。陳腐な表現だけれど青春の音がする。ただ、多分上京を経験した人にしかわからない部分があるだろう、それが僕としてはなんともむずかゆい。


くるり - 東京 (Quruli - Tokyo) 百鬼夜行ver

 とはいえ東京が近くなったのも現実である。あらゆる人が言っているとおり、技術の進歩は最新の情報をすぐさま全国に広げてしまう。そこにスピードの差はそれほどない。また、どんな僻地であっても一日あれば東京に着いてしまうし、欲しいものがあったらわざわざ流行のど真ん中に行って買い求めずともネットで注文してしまえばそれで終わりだ。しかしまあ、こんなことはみんなが言っていることだ。みんなそんなことは知っている、だからこんなことを書くのは安易な気がして若干恥ずかしいし、文字数稼ぎの側面もある(まあこんな言い訳が一番の文字数稼ぎなのだが。そもそもこれはブログ、文字数稼ぎなんてする必要もないのに、とこんなことを書くのがさらに文字数稼ぎであって、とすればこれは無限ループして文字数が稼げそうだ、今度困ったときにぜひやってみよう)。

 とにかくそういった古典的上京物語はどうもそろそろお役御免なのであるまいか、ということである。僕のような昭和に憧れる変態はさておき、上京に昔ほどの隔絶感、その生き生きとした孤独は失われてしまったのではあるまいか。しかし、かつて上京することが持っていた神話的イメージが失われることはない。東京はそうしたイメージを詰め込んだ一つの入れ物であるに過ぎない。イメージは時代とともにその外郭をとっかえひっかえしながら生きている。いや、そのイメージは個々人によって異なる、といったほうが正確だろう。もとより東京に住んでいた人たちは上京を入れ物にしていたはずもない。僕のように何か大きな勘違いをしている人だけが、東京の神話性を強調しすぎただけだ。その意味で僕は東京原理主義者とも言えるかもしれない。東京がそのイメージを代表として背負っていたに過ぎない。 安易な結論ではあるけれど、これは幾つかの条件が重なり合った結果である。これは前述の論の焼き直しであるが、海外への距離は確実に縮まっている。それは主に物理的な面においてだ。海外の情報を、私たちは得ようとすればすぐに得ることができる。ここで重要になってくるのは、「得ようとすれば」というポイントである。ぼうっとスマホの画面を眺めていても、現れてくるのは日本国内の情報だけである。海外からの情報は、誰かが取捨選択したものであるに過ぎない。私たちは自発的に海外の情報を得ることができないのだ。棚の上に無数の情報が転がっているが、そこに手を伸ばすには重たいはしごを持ち上げなければならない。そのために私たちはトレーニングをする必要がある。ただ、ここでのトレーニングは語学学習、というより英語学習である、と安易に決めつけるのは避けたい。しかしこのことについては多くの指揮者がすでに論じているところで、別に無力なパンクロッカーに憧れた少年が今更論じるテーマではないだろう。しかし、その情報が家の外にあって、それを探しに足を動かさないといけなかった時代とは大きく異なっている。

 とにもかくにも、私たちと海の向こうとの距離は技術的に縮まっているのだ。つまり、上京物語が神話であった時代の九州と東京の距離と、現在において日本と海外(ここではあえて国を限定しない)との距離が同じであると仮定しても問題はあるまい。ただし、もし距離の面でその類似関係が見られるにしても、その内部にある関係性──ここでは上下関係と呼ぶ──の面を考えずにこの論を唱えるのは荒唐無稽ではないか。

 ここからは(正直に言えばこれまでも)僕の憶測になるし、確かなデータの裏付けを取ったわけでもない話にはなるが、世界における日本の立ち位置というのは着実に低下しているはずだ。この点は僕には難しすぎるし、多様な意見があるのを知っている。ただ、僕個人の、いち大学生の感覚として、これからの将来、誰もが明るい未来を抱けるわけではないであろうと感じてしまうのも事実である。怠惰な人間がもはや生きられない時代に僕たち生きているのだなと感じる瞬間が多々あるのだ。しかしそんな悲壮感を真面目なトーンでう訴えかけるのも違うだろう。僕はあくまでなあなあとだらしなく、すべてを茶化しながらのらりくらりと生きていきたいと思っている。話が脇道に逸れてしまったようだ。とにかく、現代の日本は、かつての東京たり得ないのではないか。田舎の坊主頭の高校生がとんねるずを見て憧れた東京にはなりえないのではないか。もはや私たちは世界の中で、郊外に住んでいるのではないか。憧れの視線を向けられる側ではないのではないか。

 もはや上下関係においても、日本は世界に対して田舎であるのではないか。もしそうだとすれば、新しい神話は、国外に向ける他ない。僕達の努力×成功物語の舞台は、この小さな島国に収まりきらないものになってしまったのだ。

 

米原万里 オリガ・モリソヴナの反語法

 米原万里さんの『オリガ・モリソヴナの反語法』を読んだ。実はこの本、買ってから少し寝かしていた。いわゆる積ん読。というのもこの小説、文庫本でおよそ500ページあり、最近読書体力の減衰が著しい僕は、少し躊躇っていたのだ。

 

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

 

 

 

 しかし杞憂だった。ページをめくる手がもうとまらない!!と帯に書いてあったがまさにその通りだった。会話の妙、ミステリー仕立てのスリリングな構成、モスクワ市内の生き生きとした描写。これこそ小説なんだ。少し唸ってしまうばかりの完成度である。ここには往々にして日本文学が追い求めようとする、鬱屈した自己の発露などない。しかしこれは紛れもなく文学である。読者は目を輝かせながら物語の筋を追い、それでいて文章の魅力に思わずため息をついてしまう。

 

 これは大人になった主人公が、小さい頃出会った舞踊教師、オリガ・モリソヴナの半生を辿るミステリーじかけの冒険譚である。主人公の少女時代に痛烈な記憶を残した教師。しかし記憶の中には多く謎が含まれていた。現在、少女時代、そして教師の前半生と、時空間を行き交いながら、教師の振る舞いに隠された秘密を解き明かしていく。

 

 この小説の魅力は、時間の経過をありありと感じられるその構成の妙である。長い間会っていなかった友人の体型が変化している。しかし昔と変わらぬ瞳。苦労話を笑い話に変えられるだけの時間が経ってしまったことに思わず苦笑してしまう。少女時代と現在との間の空白を、読者は主人公の思い出や些細な会話から想像することができる。描かれている時間は僅かであっても、効果的に挿入されるエピソードによって空白が埋められていく。そして描かれていない主人公の葛藤、苦労を想像し、彼女の人生が複合的なリアリティのあるものになっていく。また、先程も言ったように、この小説は伝説の舞踊教師の過去を探るミステリーでもある。その舞踊教師の過去は、彼女にとって空白である。つまり、この本を読みながら読者は主人公の空白を埋めようとし、その物語の中で主人公は教師の空白を埋めようとするのだ。これほどまでに重層的でスリリングな小説をいまだかつて読んだことがないと言っても過言ではない。重厚な高級車。読者はまるでエンジンがつけられたかのように先へ先へと物語を進めてしまう。しかしそれでいて高品質の制動装置が取り付けられているのがなんとも憎らしい。名エッセイストでもある著者の独特な、それでいてユーモラスな着眼点。登場人物一人一人の魅力的なセリフ。先が気になって仕方ないのに、アクセルを踏んだらすぐに止まらないといけない。止まらざるをえない。もうゆっくり走る他ないかなとも思えてくる。だだっ広い道路の脇には満開の桜が咲いていて、ドライバーはそれに見とれて思わずブレーキを踏んでしまうのだ。

 

 オリガ・モリソヴナの罵倒はすべてがユーモラスで独特の響きを持つ。思わずにんまりしてしまうものもあれば、意味がわからず首をひねってしまうものもある。少し紹介する。意味がわからなければ、ぜひこの本を手にとって見てほしい。

 

「あらまあ震えが止まらなくなるような神童!」

「これぞ想像を絶する美の極み!」

「これはこれは教授!」

七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でもね、結局スープの出汁になっちまったんだよ」

 

 

 これらの罵倒がどうして彼女の口から出るようになったのか。この罵倒語(特に最後のやつ)はどういう意味なのか。もしわからない、気になると少しでも思ったらぜひこの本を手にとって読んでもらいたい。いや、この小説は必読だろう。日本人として、この小説を原文で容易に読める、その事実だけで日本人であってよかったと感じるほどだ。


  

穂村弘 現実入門

 穂村弘さんの現実入門を読んだ。とても「気持ちが良い」時間だった。この言葉がこの本を一番うまく表現できる気がする。「面白い」のはもちろんだけれど、それだけでは伝えられない魅力がこの本には間違いなく存在する。

 

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

現実入門―ほんとにみんなこんなことを? (光文社文庫)

 


 気持ちが良いとはどんな感覚だろうか。湯船に浸かった時、性欲を発散した時、忘れていた何かを再発見した時。「面白い」でも「楽しい」でも「スリリング」でもない感覚。端的に言うのは難しい。感覚的、肉体的で、言語化困難な感覚。しかしそんなことを言っていたのではこの文章を書いている意味などないだろう。読書している最中、確かに僕は「気持ちよかった」のだ。


 本を読むという行為は、気持ちいいという感覚とかけ離れている気がする。僕はその違和感から、何故この本が僕を気持ちよくさせたのか、その理由を知るきっかけを得ようと試みた。おそらく気持ちいいという感覚は、刹那的な快楽、短時間に強い快楽を感じたときに人間が言語化する感覚である。例を上げた感覚もその例にもれない。湯船に使っている時間は、個人差こそあるものの一般的に10分から20分ほどであるし、性欲を発散させる時、つまりセックスやマスターベーションの快楽はそう長く続かない。忘れていたことを思い出した時の快感など一瞬で何処かへ消えていってしまう。しかしその反面、読書とは長期的な快楽であり、もしかしたら苦痛に転じることもあるかもしれない。だから読書は財産だといろいろな人が言うのかもしれない。しかし「読む」という行為の能動性は読者に要求する部分も大きい。安易に快楽は得られないはずだ。


 現実入門は、基本的にエッセイである。著者の穂村さんは歌人であり、現実に対して恐れを抱いている。例えば、初めての相撲観戦、初めてのマス席で、穂村さんは係の人に渡す「心づけ」を渡すのにドキドキしてしまう。渡すタイミングを図ってずっと手に握りしめていると、心づけはぐちゃぐちゃになってしまう。一般的にはどうするのか、何も知らないけれど恥はかきたくない。また、初めてのモデルルーム見学。その日は雨で、水たまりに足を突っ込んでしまった穂村さんは、その足のままモデルルームに入っていいのか悩み、不安になる。


 そういった日常=現実。そのなかでできるだけ判断を保留しておきたいという思い。日常に埋没してしまうエピソードを丹念に掘り返し、きれいに洗って丁寧に料理してくれる。こだわりの蒸し野菜みたいな。店オリジナルのソース(筆者独自の視点)をつけていただく。一日を振り返っても、決して思い返すことのない瞬間。しかしそういった些細な瞬間にも、自分という人間は葛藤しながら判断しているのだということに気付かされる。発見の快楽。僕は忘れていた小さな現実を思い出し、気持ちよくなったのかもしれない。


 平易な言葉を滑らかな音調に乗せて語る。小さな声で、自分のリズムで文章を口ずさみたくなる。センスが良いといったらそれまでなのだけれど。文章だけでなく、紙面のことまで考えて書かれた文章。文章を味わう、紙面全体を味わう感じ。意図的な改行、段落構成、…の使い方。絵画的な文章とでもいうのだろうか。パラパラ漫画みたいに文章を全く読まず、眺めるだけでその魅力がわかる感じ。だからこの作品は、読む前に眺めるだけで楽しい。その瞬間的な快楽を、僕は気持ちいいと感じたのだろうか。


 作品の魅力など、語り尽くせるはずもない。もしかしたら、語ることなど不可能であるかもしれない。だから読んでもらう他ない、手にとって。

 

 

 

イチローは、特別だ。

イチローは、特別だ。



小学校から高校まで野球をやっていました。今でも大学のサークルで時折プレイする事があります。

 

正直全然うまくない。それなのに変に意地っ張りで、色々しんどい思いもしました。

 

小学校のチームはは弱小。年間3回しか勝ったことがありません。それも2回は同じチーム。もちろん公式戦では0勝。

 

それでもそのチームの中で、それなりに打てて、それなりに守れて。4番を打ったり、エースだって言わたりもしました。打率も4割を超え、チームでも2番目でした。

 

平日は授業が終わるとすぐにランドセルを置いて、野球道具がひとしきり入ったバッグを手にとって自転車に飛び乗りました。小さな公園で、日が暮れるまでテニスボールと金属バットで野球をしました。普段使っていたボールは軟式ボールで、柔らかそうな名前ではあったのですが、それでも体に当たると痛い。窓を割ってしまうかもしれない。それでテニスボールのほうがマシだなって話になったんですね。

 

でもまあ、公園の奥にある家の窓(それも2階!)にホームランボールを当ててしまったり、運転手が窓を開けて寝ているタクシーの中にボールが吸い込まれていったり、鋭い打球が走行中の車を直撃したり、色々ありました。

 

やっぱりそれに対して怒ってくる人もいて、僕らは反省しているふりをしたり、人影が見えて途端に一目散に走って逃げたりもしました。

 

まあそれでも小学校を卒業するまで、その日々はほとんど毎日続きました。やっぱりそれだけ楽しかった。ヒットを打ったら気持ちがいいし、空振りを(フォークで!)取れたらほんとに嬉しかった。

 

家に帰ったらすぐテレビを付けて巨人戦を見ました。阿部、由伸、上原そして、小笠原にラミレス。かじりつくようにテレビを見ていました。その当時は今と違って巨人戦を毎日放送していたのです。

 

大抵の場合試合終了は9時を過ぎ、最後まで試合を見れることは少なかったです。だからニュースのスポーツコーナーを欠かさず見ていました。

 

それも野球が楽しくて、面白くて仕方なかったから。テレビゲームはもちろんパワプロ。選手の能力値と成績を全員覚えていました。高橋由伸のミートはB、パワーはA。上原はコントロールスタミナともにA、フォークの変化量は5。まあ結構忘れましたが、いまだに覚えている数値はたくさんあります(多分2003年のパワプロ)。あと選手名鑑も熟読していました。これも大抵の選手の年俸を暗記してましたね。

 

まあそんなこんなで、小学校を卒業しました。それで中学に入るわけなんですけど、ここで一つの決断を迫られました。野球を続けるのは決めていたんですけど、中学の部活に入るか、それとも硬式のクラブチームに行くか。僕の中学は、市の弱小チームが3校集まっていました。まあ、どう転んでも弱い。小学校のように負けるのが当たり前っていうのは嫌だ。それに小学生の俺は結構上手かったじゃないか。内角低めを打つ技術をコーチによく褒められたし。

 

でも、やっぱり怖いわけです。知らない人たちと野球をするっていうのが。井の中の蛙ではあったんですけど、外の景色もちょっと見えたんですね。小さな小窓から映る景色はおどろおどろしいように見えました。でも全貌はわからない。もしかしたら目に見える部分以外はのどかな田園風景が広がっているかもしれないし、一面火の海、鬼人が跋扈しているかもしれない。

 

それでも僕はクラブチームの方を選びました。悩んだ、とはいえそこまで苦しんだ覚えはありません。自分に無垢な自信があったのか、挑戦することがカッコのよろしいことだと植え付けられていたのか。

 

しかしまあそれからの毎日は辛かった。本当に辛かった。中学生になり、極度の人見知りを発症した僕に、友達はできませんでした。人の名前を呼ぶのが怖い。チームメイトなのに。でも一人で飯を食うのは嫌だからどこかの集団にまじろうとする。みんな固定のコミュニティがあるのに僕だけ流浪の民です。車移動のときも僕だけ一人車が決まらず、一人分席空いてないですかと尋ねてまわる。

 

親が来る日は地獄です。親の前で友達のいない姿など見せられない。一人ぼっちで飯を食っている姿など見せられない。楽しく友人と笑いあっている姿を見せたい。正直野球でミスをするのはかまわない。だから親には来ないでと言っていました。それでもやっぱり来る時は来る。まあ親が当番の日もありますし、公式戦の日はやはり息子の姿を見たいのでしょう。晴れ姿を。でも僕の周りは土砂降りでした。

 

それでも野球が上手ければ、誰か話しかけてくれる人もいたかもしれない。でも僕は限りなく下手でした。一日で2本バットを折ったり、ゴロを全部弾いてしまったり。チームで一番肩が弱く、僕だけ基準値までボールが届きません。そしてそのこと、下手なことを笑い飛ばせる強さはない。

 

僕みたいな下手くそは、まあ他に何人かいました。それでも彼らには友達がいた。馬鹿にされても笑い飛ばしていた。僕は馬鹿にされたらムキになります。実力もないくせに。

 

それは負の連鎖です。下手糞で人見知りのくせに怒りっぽいやつに友達などできるはずもない。なんならいじめられます。いじめられていたと思います。認めたくないですけど。

 

野球なんて楽しくない。

 

しかし、そんなつらい日々も終わります。中学を卒業し、地元の進学校に進みます。それ以降彼らと会ってもいませんし、これから会うつもりなどありません。でもまあ憎んでいるわけでもないです。ただ、彼らと会ったところで、僕は再び挙動不審になってしまう。これから僕がどれだけ成功を収めようと、たとえスーパースターになったとしても、彼らの名前を呼ぶことはできない。

 

それでも、野球以外にやってこなかった自分に他の道などありませんでした。他の道が隠れていた、という方が正確かもしれません。それで僕は高校も野球部に入りました。中学でのことは、忘れました。忘れようとしました。無理に明るく振舞い、無理に人間とふれあいました。しかしまあ、人間の適応力とはすごいもので、次第に無理をしないでも友達と接することができるようになりました。

 

部室で馬鹿話をした日々。帰り道には友達と福山雅治のうんこについて論じ合いました。イケメンはうんこに問題を抱えているはず。そうでなければこの世は不条理だ。福山雅治のうんこは霧状に放射されるに違いない。など。汚い話ですみません。

 

しかしまあ、野球はやっぱり上手くないわけです。たしかに中学の頃に比べると、周りのレベルは落ちました。相対的に僕のレベルも上がりました。でも、やっぱりスタメンにはなれないんです。中学の頃はベンチすら入れなかったですから、それに比べると大いなる進歩です。でも、スタメンで試合に出ること、そしてチャンスでヒットを打つこと、これが野球の楽しさです。

 

小学校の頃の楽しさを思い出したかった。そのために必死になったつもりです。でも、実はそこまでの熱意などなかったのかもしれません。

 

うまくいかない自分、頑張ってもうまくいかない自分を悲劇のヒーローに見立てて、それを防波堤に日々を過ごしていたのだと思います。だからいざ最高学年になって、それでも最後の夏の大会に出れそうもない、となった時何か諦めというか、こんな劇的でない形で終わるんだなと思いました。

 

とはいえ出たいけど出れない、一つのミスが自分の首元にかかっている、と言った状況で僕は野球を楽しむことなどできませんでした。野球は恐怖の対象であり、遠ざけておきたいものでした。

 

そして今、僕は野球漬けの生活(もっと本格的にやっていた人には失礼な表現かもしれないですが)から解放されました。プレーすることはなくても、野球は娯楽になりました。




これまでの人生において、イチローのファンだと言ったことはありません。そう思ったこともありませんでした。

 

イチローがヒットを打つのは当たり前でした。ニュースを見る必要もありませんでした。

 

しかし、小学生の頃、野球が純粋に楽しくて仕方なかった頃、僕は周りの野球少年と同じように腕を地面に水平に保ち、バットを立てて袖を軽くまくってピッチャーを睨みつけました。それは野球に触れたことのある人ならみんな通る道です。

 

誰のお陰で野球をやることになったのか、そんなのはわかりません。でも、僕にとって、野球が楽しくて楽しくて仕方なかった頃のスーパースターはイチローです。紛れもなくヒーローです。好き、と言うには雲の上の存在だけれど、神様にしてはすこし身近すぎる存在でした。

 

しかし純粋に野球を楽しめるようになった今、イチローは引退します。僕はイチローの顔を見て、野球の楽しさを思い出しました。そして過ぎ去った時間を思いました。

 

ああ白髪が増えたなあとか、肩も弱くなったなあとか思うわけです。やっぱりイチローも人間なんだなあだとか、月並みなことを思うわけです。でもその姿を見ると、やっぱり全盛期のイチローの姿が頭に浮かんできます。そして僕も楽しく野球をしていたことを思い出します。

 

イチローは僕の中で、一つの時間軸になっています。鏡を見ても時間がどれだけ経ったのかはわかりません。だからその代わりに、イチローの姿を見ます。

 

やっぱりイチローは特別です。僕の人生に食い込みすぎです。

 

色んな人の、色んな人生にイチローは食い込んでいるのでしょう。誰にとってもイチローは個人的なんでしょう。僕がこんなに感傷的に過去のことを思い出したように、日本中、いや世界中の人がイチローに心揺さぶられているのでしょう。それがイチローイチローたる所以なのではないかと思います。



イチローは、特別じゃないんだなあ、と。